宙組公演『FLYING SAPA-フライング サパ-』を観ました

 

 宙組公演『FLYING SAPA-フライング サパ-』を観てきました。大好きな上田久美子先生の完全新作というだけでなく、様々な思いを抱えた観劇。全神経を尖らせて見させていただいたのですがこの4か月で完全に感想の書き方忘れてしまい、てんやわんやな文章となっております。よろしければお付き合いください。

 

1.ジャンル

 2016年、米国大統領選挙以降、文学史に名高いジョージ・オーウェルの『1984』が再び注目されたのは記憶に新しい。『1984』はSF(サイエンスフィクション、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称)の中でもディストピア小説と呼ばれるジャンルである。
 ディストピア小説は科学が発展した空想的な未来におけるユートピア(理想郷)と正反対の要素を持つ破綻した近未来社会を描き、その内容は政治的・社会的な課題を背景とする場合が多い。
 今回、宝塚歌劇団宙組が上演した『FLYING SAPA-フライング サパ-』(以下、サパ)はこのディストピアを描いた作品と言っていいだろう。人類の進化、管理社会、全体主義個人主義の対立、階級社会など、ディストピア小説で見られる様々なテーマが取り上げられている。
 しかも、そこに紛争、エスニシティレイシズムなど、現代社会の数々の課題を内包しつつ、エンタメとして成立させていた。

2.あらすじ

 そもそも、これらのテーマは宝塚においてあまり見慣れないものだ。だが、「上田久美子」という演出家の作品として考えるとそう不思議ではない。『月雲の皇子』での鮮烈な演出家デビュー以来、緻密な脚本と繊細な人物描写で熱狂的な人気を博してきた彼女の前作『BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る-』(以下、BADDY)における問題意識が発展し、サパに繋がっているのがはっきり分かるからだ。

 BADDYのピースフルプラネット“地球”(戦争も犯罪も全ての悪が鎮圧された世界)のごとく、サパは単一国家として戦争も犯罪も起こらない平和がもたらされた、かつて水星と呼ばれた星"ポルンカ"を舞台に展開される。
 サパの世界では太陽の核融合反応が弱まった地球で資源と食料を巡ったパニックと全世界大戦が起こる。そこから逃れるように戦争に勝利した国の一部の上流階級と宇宙で暮らすために必要な技術開発力を持った者、つまりは人類の存続に役に立つ者のみが選ばれ、宇宙船で移住してきたという。
 ポルンカでは地球で凄惨な争いを生み出してきた原因である「違い」を排除するため、地球における様々な言語・民族・文化などが禁止されている。人間には名前の代わりに識別番号が授けられ、単一の言語を用いたユートピア的国家が築かれてきた。
 また、人々は人類が宇宙で生きられるよう開発された「へその緒」と呼ばれる生命維持装置を通して、国民の精神データを政府中枢のデータベースに集約されている。データベースでは悪の衝動を未然にチェックすることができ、人類は完璧な秩序の中で暮らしていた。
 そのような政府による完全なコントロールに不可欠なのは悪の衝動が実行に移る前にその火種を消すことである。筒井康隆『パプリカ』よろしく、兵士と呼ばれる存在が夢を通して人々の意識の中に潜り、危険思想の存在を探す仕事を請け負う。
 その兵士こそが宙組男役トップスター・真風涼帆演じる主人公オバクである。彼そのものがかつて何かしらの危険思想の持ち主であり、科学による治療(矯正)不能と判断され、それまでの記憶を消されている。そのため、兵士となった4年間の記憶しか持っていない。
 抑圧と協調。目的のためであればどんな手段も正当化される社会。「漂白」された思想に満たされた世界が果たして真に健全たるのか? 宝塚的世界観を揺るがすだけでなく、現代社会へ向けられた冷静で知的な視線は本作でも健在となっている。

 

3.構成

 これだけ重たいテーマがエンタメとして成立するのはいつものことながら細部にまでエスプリが冴え渡った構成の上手さが大きい。1幕冒頭で怒涛のように世界観を浴びせ、観客を引き込んだところでまずはポルンカという星の設定を紐解いていく。その中でも最大の謎の一つ、SAPAと呼ばれる巨大クレーターの存在がこの物語のキーとなる。どうやらそこに辿り着いたものはどんな願いでも叶うらしい。
 オバクとそのお目付け役である公務員タルコフを脅すように巻き込んで、SAPAへ向かおうとするのはポルンカを治める総統の一人娘であり、次期総統に指名されている女性、トップ娘役・星風まどか演じるミレナである。
 旅路の途中、違法ホテルにて数々のアウトローな人物たちと出会うのだが、中でも精神科医のノアとアナーキージャーナリストのイエレナはどうやら記憶喪失前の主人公について何か知っているらしい。次第にミレナまでもが地球での記憶を失っていることが判明する。そんな登場人物の謎を残したまま、2幕へ続く。
 2幕も怒涛の展開で観客は最後まで心掻き乱され続ける。歌唱を極力排除した膨大な台詞、SF的世界観のため細部の理解には時間がかかるが、大枠の理解には一回の観劇でも十分だろう。なおかつ同じ演目を複数回観劇する人の多い宝塚では回数を重ねるごとに理解が深まり、より楽しめる構造は非常に重要になる。
 普通、これほどの要素を詰め込めばどこかしら破綻してしまいそうなものだが、物語の手綱は演出家の手から1ミリも離れることはない。相変わらずその計算し尽くされた手腕に惚れ惚れした。

 

4.「布」が表す融合と分断

 初見時、プログラムのウエクミ先生の言葉にもあったよう、この物語は常時接続かつ管理的な現代社会に対する苛烈なまでのド直球批判だと思った。その問題意識は言葉で明示されている部分の他には「布」を使った演出に感じ取ることができる。

①純白のヴェール
 1幕、自分の記憶の謎を追うオバクはアナーキージャーナリストのイエレナに近付く。怪しげな音楽に合わせて、舞台上で真っ白な布に包まれた一対の肉体が蠢く。その姿はまるで二人の人間の境界線が溶け合い、一つの生命体になってしまったかのようだ。そうしてイエレナと”初めて”寝たオバクは彼女が彼の身体を知り”過ぎ”ていると気付く。記憶にはないが、確かに知っている。最も密着した身体的な交わりによって、逆説的にその「違和感」がはっきりとするのだ。
 また、2幕でミレナがポルンカの人類全ての意識"ミンナ"と混ざり合う際も同様の演出が行われる。群衆とミレナを覆い尽くした真っ白な布は先ほどよりもより巨大化した、変態する蛹のような塊となる。それ自体が生きているかのようにばらばらと蠢き、人間が溶け合っていく。皮膚も肉も骨もすべてが混ざり合い、形を変え、一体となる。
 そうしてミレナとミンナの融合が完了するとミレナを取り込んでいた布はするすると持ち上げられ、サーカスのテントのように天井を覆う。そんなミンナの意識の中でオバクとブコビッチは過去の記憶を共有する。他人の心と繋がり、己の憎しみも他者の苦しみもすべてを共有し合う。布が落ちれば過去と意識が分断され、現在へと戻ってくる。
 これらの布の動きは人間の精神的「融合」を効果的に見せ、そして、それによってむしろ個人と個人の「分断」を際立たせる働きがあると考えられる。
 そもそもポルンカの人間は「へその緒」システムにより、全身を見えない膜で覆われている。ある意味、透明な洋服のようで、生身の肉体を保護すると共に自分以外の世界との隔絶を作り出している。他者と絶対的な隔たりを作ることで初めて生命を維持できるのだ。ブコビッチの手によって後につけ足された精神データの一括管理システムが徹底的に否定され続けているところもから個人としての独立性を重視していることがひしひしと伝わってきた。

②キプーのひざ掛け
 布はSAPAの違法ホテルで出会ったテウダという母親とその息子キプーの関係性にも「融合」と「分断」の効果をもたらす。キプーは脚が悪く、車椅子に乗っている。そんな我が子をテウダは優しく気遣い、その脚を治したいと願って危険なSAPAまでやって来たらしい。テウダはただただ息子の幸せを祈る献身的で理想的な母親である。
 そして、そんなキプーの脚にはいつも同じひざ掛けが掛けられている。いつだって肌身離さないあたたかな布だ。だが、実際のところ、キプーの脚はどこも悪くない。守る必要などどこにもない。医学では立てない理由が分からないからテウダは藁にもすがる気持ちでSAPAに来たのだ。ポルンカには祈る神もいないから。
 少年はタルコフの死を前にして初めて自分の足で立つ。泣くな、強くなれ。お母さんを守ってやれ。家族のような関係性を築いたタルコフの亡骸には唯一の弔いとしてキプーのあたたかなひざ掛けがかけられる。キプーにはもう必要ないから、一人で立って歩けるから。誰にも守られる必要はないから。
 物語のラスト、キプーはフライングサパに単身乗り込む選択をする。見送りに来たテウダはわたしもこの星も息子を守りすぎていたのかもしれないと微笑む。癒着していた母子関係が分離し、子の巣立ちに繋がることを一枚の布が静かに、それでいて力強く見せてくれた。


5.分かり合えないことから

 本作は全体主義的な思想について明らかなNOを示している。ただ、それでいて思想を問わず、全ての登場人物に人間臭さが薫るところがたまらない。特に人類全体の融合を目指したブコビッチに対する細やかな描写がその魅力を端的に物語っているだろう。

 ポルンカで禁止されている「違い」の一つに名前がある。地球での呼び名から浮かび上がるのはその人が所属している民族である。民族が分かれば、それに付随する言語、文化、歴史的背景が語り掛けてくる。
 「ブコビッチ」はおそらく南スラブ系。ユーゴスラビア圏を出自に持つ。世界でも有数の歴史的背景の複雑な土地である。それだけでもブコビッチが「違い」を奪おうとした理由が察せられる上、着想を得たという『怪物の眠り』の作者エンキ・ビラルは旧ユーゴスラビアの出身であり、作品自体にも重なりが見つけられるだろう。
 なおかつ、彼の母国はサパの地球における戦争の敗戦国なのだ。優れた科学者だから宇宙船に乗ることができただけで彼はずっと虐げられる立場の難民である。 
 一方でオバクの地球名であるサーシャとその父、ロパートキンの出身はロシアだろう。ロパートキンがユーラシア最高の科学者と呼ばれていたことから先の地球での戦争はロシア側が勝利したと考えられる。
 この立場の違いは埋めようのない思想の差をもたらす。「へその緒」システムを完成させた際、神に感謝すると言ったロバートキンにブコビッチは激昂する。人間は平等ではない。命は選ばれている。勝者が語る理想論は彼らが奪われていないから言えることなのである。奪った者、奪われた者、どこまでいっても分かり合えるはずがない。

 そんなブコビッチの過去については、宝塚でここまで描くのかと息を飲んでしまった。分かり合えるという理想を説くオバクから過去の描写に入り、目をそむけたくなるような戦争の描写が始まる。容赦ない落差、正直、苦しすぎて辛かった。
 彼が全体主義に陥る理由が痛いほど分かるのだ。理不尽に恥辱に満ちた死を与えられた妻や娘の苦しみ、悲しみ、無念。目の前で愛しい存在の命を奪われること、守れなかったこと。生きていること自体が罰のような苦しみから解放されるためには完璧な世界を叶えなくてはならなかった。すみれコードぎりぎりまで容赦なく描かれているからこそ、その苦しみが響く。
 そうして一人で背負ってきた寂しさはミンナになれば解放される。どんなに分かり合えない存在であっても一つになれば分かり合える。わたしたちを分断してきた言葉も立場も説明もいらない。オバクはブコビッチの愛を憎しみのようだと呼んだが、それでもなおわたしはそれを「悪」とは呼べない。引き裂かれそうな胸の痛み。彼を善悪で測れることができない。善だけの人間も悪だけの人間もいない。善も悪も混ざり合って、愛しきれない憎みきれない。その割り切れなさが人間なのだと思う。
 孤独な総統に女神のような微笑みで死をもたらしたのは奇しくもミンナと融合した娘・ミレナであった。憎しみから殺すのではない。永遠の眠りこそが彼をその寂しさから救った。きっと彼の魂は妻と娘を失ったときに一緒に殺されていたのだ。命の心配などする必要のない宇宙船でもSAPAの寂しい地下実験室でも、彼の魂はずっとずっと戦場で残虐に殺され続けていた。この世のどこにも平和などなかった、誰しもに等しく訪れる死のほかには。だから、ミンナになったミレナが終末をもたらした。あれほど世界をひとつにしようとしていたブコビッチはミンナから分断されることで初めて安寧を得た。

 サパを見ていると以前、テレビで放送されていたダンサーの菅原小春と平和学研究者の伊勢崎賢治の対談が脳裏に蘇ってきた。菅原はもちろん世界的に知られたダンサーであり、伊勢崎はNGO国際連合職員として世界各地の紛争地で紛争処理や武装解除などに当たった実務家である。
 そんな異業種の二人が語らうのは戦争についてだ。「どうして戦争ってあり続けると思う?」という問いに菅原はこう答えていた。
「愛があるから。人間が愛を持ち続ける限り、憎しみは生まれていく。だから戦争もなくならない」
 わたしたちが人を愛するとき、もしその人が誰かの手によって傷付けられたら、傷付けた相手を憎んでしまう。どんな理由があろうと憎むのを止められない。ブコビッチのように。愛から憎しみが生まれる。愛がある限り、戦争はなくならない。
 当時のわたしにとって、この答えは衝撃だった。そして、同じ衝撃が今回のサパでもたらされている。宝塚という夢の世界がいつだって力強く肯定する愛や夢や希望、それはいつも憎しみと隣り合わせにあるのかもしれない。
 わたしたちはきっと争い続ける。これまで払ってきたたくさんの犠牲を知りながら、どんなに違いをなくしても完全にわかり合うことはできない。不完全で、醜くて、無様で。わたしにはわたしの、あなたにはあなたの地獄がある。
 なのに、それでも愛してしまう、分かりたいと思ってしまう。不完全な存在として、あなたと共に生きたい。分かり合えないことから始めることはできるのだ。どんな絶望の淵でも希望を見出す人間の人間であるが故のままならなさ。ウエクミ作品の中で今までずっと繰り返し表現されてきたことがここにもあった。

 そうしてブコビッチを亡くしたポルンカには88日ぶりの朝が訪れる。神々しいまでの光と共に集まった群衆が一斉に歌い出す。まるで新しい世界の訪れを祝福するかのように。当初、サパは宝塚としては異例のほとんど歌のない芝居だと噂になっていた。しかし、考えてみれば当然でサパの舞台となるのは音楽が禁止された世界なのである。やすやすと歌えるはずもない。だからこそ、絞りに絞られた場面での歌の力が響いてくる。その響きは神聖と言ってもいいほど、心に響いた。

 

6.希望の船

 ポルンカ最初の女性、識別番号02・ミレナにはありとあらゆる災厄が降りかかった。ミンナを通して人類すべての苦しみすら知った。それでも彼女には希望が残った。ギリシャ神話における人類最初の女性パンドラと同じく。
 新天地を目指す「フライング・サパ」に向かう彼女には他者と分かり合えない根源的な寂しさと共に生きる覚悟ができていた。愛する人と再び額を合わせたとき、寂しさを抱えながらそれでも一緒に生きていく未来を力強く見据えている。
 彼女の父、ブコビッチには過去しかなかった。同じくイエレナにも。過去に囚われ続け、過去のために現在を生きていた。未来すら過去のためにあった。
 けれど、彼女にはノアがいた。どんなに分かり合えなくてもありのままを愛される。彼女の現在を受け止め続ける存在が。そしてまた新たな希望に姿を変える。未来がその身体に宿った。

 彼女たちに向けられた眼差しにわたしたちはどう向き合えばよいのだろう。奇しくも新型コロナウィルスが世界的に感染を拡大し、宝塚すらもその現実から逃げられない今このときだからこそ作品の持つ重層性はさらに増した。
 さて、オバク達を乗せて飛び立つ「フライング・サパ」は「すばらしい新世界」へ辿り着けるのだろうか?
 作品の良し悪しと好みは必ずしも一致しない。本作が現代社会に生きる我々の心に巻き起こした問いは人によっては強い拒否感に繋がることもあるだろう。では、その胸のざわめきは一体どこからやってくるのか?
 心の柔らかい部分にひたひたと鋭い刃を突きつけられているような心地を抱えながら、今日、宝塚でこの作品が上演された意味に思いを馳せた。

 これほどまでに心動かされる劇場をわたしはやはり愛している。