2018-12-02 Phantom

 

 生まれてきて良かった。

 そういう瞬間の積み重ねが人を生かすのだと思っていた。どんなに辛いことがあっても一瞬の喜びが救いになる。良くも悪くも経験が人を成長させる。なのに、望海さんのエリックはそんな未来が自分にはないととっくの昔に諦めている、あまりに純真であまりに孤独な子どもだった。

 雪組さんの『ファントム』を観てきました。とにかくずっと胸が痛くて涙が止まらなかった。だいもんの役作り本当に凄い。まるきり子どもなの、傷付きやすい、心の柔らかな部分が剥き出しの。幸せになることを最初から諦めている、身体だけが大人になってしまった少年が愛を渇望する様を延々と見せつけられた。ナイーブな少年性が強調されることで親子の物語が浮き彫りになっていた。唯一無償の愛を与えてくれた母への愛情がクリスティーヌへの慕情に重なり、父ではないかと思い続けたキャリエールに対する臆病な愛情がどうしようもなく不器用で。あまりに庇護が必要なエリックだった。
 咲奈ちゃんのキャリエールの父性愛もとにかく素晴らしくて!父と息子のコントラストが上手すぎてずるい……!銀橋の親子に泣かされるのは勿論なのだけど、きっとあそこに至るまで何度も何度もお互いにカマかけあってきたんだと思ったら息ができなくなった。キャリエールが父かもしれない、甘えたい、愛されたいと何度も何度も思う度にエリックは不器用な探りを入れてきたのかな。だけど、この人にまで拒絶されたらと思ったら核心には触れられないでしょう。それを分かってて何も言わないキャリエールはずるい。お前が悪い。舞姫かよ。なのに確かにそこに愛はあって親子そろって不器用なのよく似てる。キャリエールはオペラ座の地下という箱庭でしか生きられなかったエリックのために至上の歌を届け続けた。唯一の罪滅ぼしのように、言葉で示せない愛情を態度で示し続けた。だから憎みきれない。

 エリックが自らの代弁者と呼んだウィリアム・ブレイクはイギリスロマン主義を代表する詩人で「生まれたまま」にもっとも近い子どもの無垢を賛美した。『無垢の詩』の一編である『The Little Black Boy』が引用されたように望海さんの役作りはここに呼応しているのかな。でも、子どもは経験を重ねることで大人になる。ブレイクは続く『経験の歌』で経験の後に肯定されうる人間的価値に思いをこらした。その経験の価値が断絶されたのが今回の『ファントム』だと思った。クリスティーヌを罠にはめたカルロッタに対するエリックの凄まじいまでの純粋な怒りが余計にそう感じさせる。お前は自分がどんなひどいことをしたのか分かっているのか。そうして神の裁きのように愛の名の元に彼女へ死を与えた。ただ、本当に?それは命をもって償わないといけないほどひどいこと?勿論、クリスティーヌの歌姫としての将来に傷はついた。だけど、強いパトロンもいて確かな才能も認められている。きぃちゃんクリスティーヌが結構ケロっとして見えたのもあったし、一度失敗してもそれこそ死ぬ気でやり直せばまた未来は開けるかもしれない。でも、エリックは経験の先にある未来を信じていないから。ボタンを掛け違えたこと、一つの失敗があの純粋な子どもには命懸けなんだ。だからこそ許せなかった。

 『ファントム』そのものが物語として良くできているのは当たり前の話だけど、それを200パーセント表現できる土壌が整っていることが稀有な気がする。言わずもがな雪組トップコンビの歌唱力、表現力が土台となる今の雪組だからこそできる素晴らしい演目。「声」の説得力をまざまざと見せつけられた。だって、きぃちゃんに対して「天使の声」って言われても納得しかないじゃん?だいきほの歌声という圧倒的説得力。皆言ってるけど、クリスティーヌの歌が垢抜けていく過程が上手い。良いミュージカル観たなー!生で観れてよかったー!って素直に思った。

 人は生きている限り、永遠に固定化されない。エリックはクリスティーヌを愛して変わった。疎むばかりだった自らの命を肯定できた。そういう一瞬のために生きてもいい。経験が少年を大人にする前に、未来に繋がる前に彼は終わりを選んだ。その表情は穏やかで晴れやかで。悲しみはあるけれど喜びもある。救われたのかな、生まれきて良かったと思えることに。存在の否定という意味では従者たちの個性が立っていたのもすごく好きでした。エリックの気持ちを表現するエリザの黒天使的な役割に加えて、あの子たちもまた地下でしか生きていけない社会から排斥された生き物なんだよね。煌びやかな世界の裏にある暗闇だけが彼らにとって安全な箱庭だった。誰もあなたを傷付けない。あの子たちには生きる場所がなかった。外の世界では生きていけない者たちに明るみに出て生きろと言うのは持ちうる者の傲慢。それをキャリエールもよく分かっていた。だからエリックを地下に帰してやろうとするし、幕引きも引き受ける。連れて逃げたところで息子の幸せはないんだって誰よりも理解してた。エリックの亡骸を見つめる慈愛の眼差しがずるいよ、咲ちゃん……。紛れもない愛だった……。

 「政治も宗教も思想も慣習も、それが制度として個人の自由を抑圧するならば、悪であり、死であった」ブレイクを表す言葉がこんなに刺さると思わなかった。総括としてエリック抱きしめたい以外の感情をなくした。ファントムあと100回観たい!本日は以上です!ありがとうございました!!!!!!!