『Kinky Boots』を観ました

 

「再演希望 オタクは黙って アンケート(自由律俳句)」


 こんばんは。かれこれ三か月ほど前になるのですが待ちに待った『Kinky Boots』を観ました。日本初演で撃ち抜かれて以来、ずっと再演を待ち望んでいた大好きな作品。見られるのを本当に本当に楽しみにしていました。そして、そんな重たい期待も遥かに飛び越えて素晴らしかった!最高の舞台を見せてもらうことができ、とてもとても幸せでした。3年ぶりに観劇して感じた想いを綴ってみました。永遠ポエムですがよろしければお付き合いください。

 


 まずね!!!!ローラがめっっっっっちゃくちゃ綺麗になってた!!!!!!!うつくしすぎて泣いてしまったくらい綺麗になってたの。ローラ役の三浦春馬さんが今回はドラァグクイーンらしいうつくしい身体づくりにこだわったと仰っていましたが、まさにその通りで考え抜かれた統制の取れた肉体がローラという強くて優しくてでも脆さも兼ね揃えた人間の魅力を200%表現していた。個人的に首からデコルテにかけての筋肉が少しすっきりした印象。ただし胸筋はそのままなのでよりウェストの括れが強調され、物語のキーとなる大事な大事な脚に繋がる曲線のうつくしさが本当に完璧だと思いました。
 勿論、歌もダンスもパワーアップしていて!前回も三浦春馬ってこんなに歌えて踊れるの?!と驚いたのに今回その比じゃなかった。ドラマに映画にと引っ張りだこの俳優さんがミュージカルに真摯に向き合いお稽古してきた結果をまざまざと見せつけられて眩暈がしたくらい。
 ローラはやっぱり最高で強烈に惹かれた。そんなローラを彼と呼ぶべきなのか、彼女と呼ぶべきなのか改めて迷ってしまった。だって、何でもいいんだもん。これはローラのアイデンティティを軽んじる意味ではなく、どんな選択をしてもローラという人間を愛しているということ。本人が望む形でのびやかな毎日を暮らして欲しい。そう思わされるくらい繊細でチャーミングでうつくしくて人間として惹きつけられるのは、春馬くん自身が物凄く思い入れを持っていつでも最高にローラを愛してくれているからだと思います。表現が愛によって説得力を持つ瞬間を見せてもらった。ありがとうの気持ちしかない。


 でも、今回一番見方が変わったのはチャーリーだった。前回の彼は夢とか情熱の置き方とか甘ったれていて無意識に無神経な銀の匙をくわえて生まれてきた坊やに思えた。自分のやりたいことが分からない。そんな若者らしい平和的な悩みを抱えているというだけで、あんなにも愛情深いローラの思いをくめないチャーリーに心底腹が立ったし、なんなんだお前は!と何度も憤った。これはこれで小池徹平さんという少女漫画の王子さまみたいな輝きを持っている役者がその輝きを抑えられていてすごいんですけどね。それでも彼は特別ではない何者かにもなれる特別な俳優だった。
 再演のチャーリーは行動の根本に家族への愛情があるのがありありと見えた。家族というのは血の繋がりだけを指すのではない。彼には自分が生まれ育った工場で働くみんなが家族で、新しい家族となるニコラが欲しがる高価な靴に対して「高い靴を買うことよりもそのお金であの人たち(工場で働くみんな)が救われることのほうがずっと大事」という言葉に重みがあった。
 想いを共有するカンパニーの家族感が増していたのもあるかもしれない。チャーリーの守りたいものがはっきり見えた。家族の期待に応えたい。やり方は多少横暴で配慮に欠けているときもある。ただ、その彼を縛る固定概念を剥がした奥にあるのは紛れもなく家族への想いだった。
 ないものねだりしてる場合じゃないよ。ずっと持ってたじゃん、あんたの一番大切なもの。馬鹿だなぁ、愛しいなぁ。工場の売却計画を知った際、自分は父親に信じられていなかったのだとショックを受けていたチャーリー。期待に答えたかったのに応えることを期待されていなかったのはそりゃあ傷付くよね。でも、パパは自分の夢よりも子どもの未来を想ったんじゃないかとわたしは勝手に考えている。それを伝える前に逝ってしまったけれど、望む形ではなかったかもしれないけれど、紛れもない愛だった。
 大切な人が残してくれるものは目に見えるものだけじゃない。魂は受け継がれるんだってことはローレンが示してくれた。今回もソニンちゃんは最高の極みにいて、彼女の爆発する感情と技術面でのコントロールの行き届き方に平伏してしまった。身体の中から感情が鳴っている。かっこいい。


 どのナンバーも大好きで仕方ないのだけど、やっぱり『Not my father's son』の場面が一番好きだ。チャーリーとローラが一人の人間として共感で繋がる瞬間だから。愛する人の期待に応えられなかった自分を受け入れる。自分の弱さも他人の弱さも受け入れて、それでも前に進もうとする姿はどこまでもうつくしい。
 親は完璧な存在ではない。必ず正しいわけでもなければ、自分の子どもの存在すら受け入れられないこともある。それでも子どもにとっては神様だ。たとえ事実であっても親からの存在否定を理性的に受け入れるのは難しい。だって、かなしい。愛されたい人に愛されない、誰よりも肯定して欲しいひとに否定される。だから、親の期待に添えなかった自分を否定する。自分が悪いから親は愛してくれない。そうして自分の心を守る、傷を、痛みに耐える。愛しているから、愛されたいから呪いがかかる。
 一般に心の傷は時間が解決してくれると言うことがある。でも、それは違う。時間が経てば自然と傷が癒えるわけではない。社会の求める理不尽な当たり前に背くと生きれば生きるだけ新しい傷が増えていく。傷口はじくじくと痛んで、治りかけてはまた抉れて、赤い赤い血が流れる。それはきっととても痛い。悲しい。寂しい。心が荒んで、自暴自棄になったりするかもしれない。人を信じたり、愛したりする力もなくなってしまうかもしれない
 それでも、もがいて、努力して、その時間を懸命に生きて初めて傷付いた過去を受け入れられるのだ。ローラがその心をシェアしてくれる度、世界を諦めないでくれてありがとうと心から思う。世界が愛で満ちるのを感じた。


 キンキーブーツを観ていて、ひとりの人間として登場人物と繋がる瞬間がとてつもなく好きだ。物語の登場人物なのに、友人のような、家族のような、自分のような。大切な誰かとして、自分事として響いて来る。世界が変わるのが分かる。
 そんな風に世界が変わる瞬間を誰よりも示してくれたのはドンだ。偏見や固定概念の擬人化のような粗野な男性。観客の中には彼の変化を夢物語だと思うひともいるかもしれない。世界中には今日もたくさんのドンがいて、同じような経験をしても変わらぬままぬくぬくと暮らすだろう。誰かの心を深く傷つけながら。悲しいけれど、それは否定できない。
 けれど、そのドンが自分じゃないって言いきれる?無意識のうちに育った偏見の目、固定概念。自分にとっての普通を振りかざして知らぬ間に誰かを傷付けているかもしれない。そんな自分の過ちに気付いたとき「わたし」はドンのように変われるだろうか。勇気をもって自分が否定してきた他者を受け入れられる?ドンに問いかけられているのはどこかの無神経な「誰か」じゃない。「わたし」なんだ。すべては自分が行動するかどうかなんだって心底思う。


 わたしたちは分かり合えない。血が繋がっていても同じ土地で生まれても他人である限り最初から分かり合えるなんてことはない。でも、そこから始めてもいい。分かり合えないからこそ、言葉を尽くし心を分け合い歩み寄る。愛ってそういうものじゃないか。
 キャッチーでパワフルで繊細で、考えるよりも先に楽しい感情が湧き上がる音楽。キンキーブーツがどんな言語で上演されてもそこは変わらない。性別を、年齢を、言葉を超えて伝わるメッセージを発信していける強み。好きだからこそ知りたい、理解したいと思わされる。今の時代だからこそ上演する意味がある作品。見終わった後に前向きな気持ちになる。自分にも他人にも優しくなれる正真正銘のハッピーミュージカルに出会えて良かった。

 またね、キンキーブーツ。ほんとにありがとう。