成福ペアの『スリル・ミー』を観ました

 

 私たち「殺人」に慣れているでしょう。Who Killed Cock Robin? お決まりの題材、物語の装置に過ぎない。フィクションで人が死んだってそう簡単に心動かされない。だから、最初はこの唯ぼんやりとした不安の正体を掴めずにいた。

 成河「私」福士「彼」ペアの『スリル・ミー』を観てきました。『髑髏城の七人 Season花』で天魔王を演じた成河さんがあまりに怖くて「この人また観たい!」と言ってたら最近無職になったオタクが即連れて行ってくれた。センキューマブダチ。楽しそうで何より。そんな軽い気持ちで観に行ったもので……まぁ……半端なく打ちのめされましたよね……。まず、始まる前から会場の雰囲気が異様だった。身動き一つ、呼吸一つ躊躇ってしまうような静寂。あれだけの人数がいる小屋であんな空気の張り詰め方をしていた経験がない。その理由も今なら分かる。逃げ出したいと思いながら芝居を観たのは初めてで自分自身戸惑いました。
 この恐怖を昇華させるためにも今日はどうしてあんなにも成河「私」が恐ろしかったのかを考えてみたいと思います。千秋楽に間に合わせたくて文章が荒いけどパッションに免じて許して欲しい。

 


 物語は34年前に起こした殺人で終身刑に服している53歳の「私」に対する仮釈放審議から始まる。この時点での「私」は大人しそうでうだつの上がらないただの中年男性に見えた。終身刑を言い渡される罪など犯しそうにない。「何故この異常な殺人事件が起こったのか?」と問いかけられる通り、数十年を経てもなお「私」が罪を犯した動機がはっきりしないという。(ここではまだ「Aber warum, Lucheni?」などとエリザ脳で再生できる余裕がありました)

 審議委員会に促されるまま53歳の「私」が語り始めた瞬間、舞台が暗転する。明るくなったその先にいたのは19歳の「私」でした。演者の服や髪型といった記号が変わったわけではない。なのに完全に違う。表情や仕草、どこをとっても青年である「私」がいた。一人タイムトラベラー成河さん。0コンマ数秒で53歳と19歳の「私」が入れ替わった。スイッチ。演技ではなく本当に最初からずっとそうだった感じ。今、この子は19歳なんだ。53歳の未来など知る由もない。なにこれ。やばい。この時点で成河さんへの期待が予想を超えた。

 育ちは良さそうだがどこか自信なくおどおどとした「私」には幼馴染がいるらしい。「私」にとって「彼」は他の誰とも違う。才気に溢れ、誰よりも求めて止まない存在なのである。だが、ニーチェを信奉する「彼」は自らをより特別な存在へと高めるために常習的な犯罪を犯していた。放火に窃盗、その他もろもろ。倫理的に認められない行いではあるが「私」はそれを幇助することになる。

 そんな「私」の望みは「彼」自身。抱き締められたい。触れたい、もっともっと奥まで。その一心で「彼」の共犯者となる。「彼」を前にした「私」は全身で「彼」の特別になりたいと叫んでいた。純度の高い執着を湛えた眼差しはいつでも爛々と輝いている。触れる度、名前を呼ばれる度、うっとり恍惚の表情を浮かべていた。恐ろしい女の情念が結晶化して生まれたかのような存在。一途な表情をすればするほど気持ち悪い。「彼」が仕方なしに肉体関係に応じる仕草を見せたとき、そんな適当な気持ちでは嫌だと怒るところとか本当にゾッとした。感情にも瞬間的な切り替えのスイッチがある感じ。一見、普通に見えるのに「彼」への執着だけが突然爆発する。怖い。

 スリル・ミー 。ワクワクさせてくれよ。形は違えど互いの欲望を満たすという歪で爛れた契約は最悪の事件を引き起こす。何の罪もない子どもを攫って殺し、身元が特定できないように顔を潰して用水路に打ち捨てる。

 個人的にはこの時点で二人の関係性は対等には程遠く見えた。だって、セックスと殺人じゃあ割に合わなくない?「私」が求めていたのは快楽ではなく高等コミュニケーションとしての触れ合いだったのかもしれないけれど、それにしたってあまりにあまりでは?「私」の言葉で語られるような「彼」のカリスマ的魅力が理解できなかったのもある。犯行動機も手口も幼稚で短絡的で薄っぺらい。自分を超人だと信じたい少しばかり知恵のある子どもに見えた。どうして「私」はそんなにも「彼」にのめり込むのだろう?「私」が警察に容疑をかけられたときだって「彼」は自分を守ることしか考えていなかった。「私」は自分がトカゲの尻尾のように扱われているのが分からないのか?どうしてそんなにも「彼」を信じているの?

 じわじわと積み重なった違和感がオペラの先で爆ぜた。司法取引を恐れた「彼」に抱かれた「私」の表情が「勝った!!!!!!!」と叫んでいたから。気付いたときにはもう遅い。ニーチェのいうところの畜群に思えた「私」が誰よりも異質な存在へと姿を変える。血の気が引いた。最大のスイッチ。立場が完全に逆転した。「私」は最初から全部分かっていた。わざと愚かに振舞っていた。「彼」と99年共に牢獄で過ごしたくて殺人を犯した。わたしたちは気の遠くなるほど長い時間を永遠と呼ぶ。すべては「私」が「彼」を「永遠」に手に入れるために仕組まれたことだった。

 本物のサイコパスがそこにいる。何らかの理由で道を逸れて罪を犯したんじゃない。生まれながらに全く違う存在。殺人を悔いてるなんて絶対に思っていない。勿論、社会的な倫理観は知っている。それよりも優先される絶対があっただけ。こんなものが超人?あまりに共感からかけ離れている。語られてきたことだってどこまでが本当のことか分からない。これまで観たものが「私」の目を通した回想であり、「私」が「信用できない語り手」そのものだと知る。怖くて怖くて仕方がないのは構成が上手いからだけじゃない。だって、私たち「殺人」には慣れ切っているでしょう。突飛な殺人動機にもサイコパスにも。慣れてる。慣れ切っている。

 だけど、それはフィクションだから。成河「私」の恐ろしさは背中合わせの恐怖だった。役じゃない。「私」はそこに生きている。舞台と客席の間に第四の壁は存在しない。私たち、いつ殺されても仕方なかった。大人しそうでうだつの上がらない全く「普通」の中年男性に見える人間の皮一枚隔てた先に化け物がいる。「私」と「私たち」は同じ世界で生きている。慣れ切っているはずのフィクションが実体を持って殴りかかってきた。一切の共感を伴わない形で現実になったのだ。これはノンフィクションの殺人。成河さんの怪演がもたらしたのはそういう恐怖だった。本物のサイコパスに出会ってしまったのだからそりゃあ怖いだろ。

 そこで引き出されたのは「私」と「私たち」の連続性だと思う。理解はできない。でも、「私たち」の隣に「私」はいるかもしれない。普通の顔で、当たり前に。あらゆる物語と「私たち」は一続きになっている。あの100分間で肉を割いて骨を砕いて思い知らされた。実際に起きた事件を下敷きにしていることもある。わたしはこれを楽しんで良いのか。本当はあの二人の感情が分からないと切り捨てることすら怖い。社会との連続性の中にある圧倒的なリアル。生きてる人間が一番恐ろしい。スリル・ミー 。ワクワクさせてくれよ。殺人に慣れながら舞台を観る私が常々思っていること。優れた芸術は固定概念を揺らがせる。

 テクストそのものや当時の社会背景、常識を知ることなしでこれだけ恐ろしいのだから深く知ったらどうなってしまうのだろう。近年、輸出産業としてスペクタクル性に富んだミュージカル作品も多い中、役者二人にピアノ一台。シンプルに力が試される作品。あまりに救いがない。後味も最悪。手放しに好きと言うには躊躇いがある。正直、もう二度と観たくないくらい怖い。けれど、また上演されることがあれば必ず足を運ぶと思う。一種の覚悟を持って静寂の一員となる。演者たちがどんな答えを選び取ったか、それを見届けたいから。分からないで終わらせることができない。そういう作品として出会ってしまった。


 ちなみにわたしはサイコパスを演じる推しが性癖なんですけど、正直こんなマジモンには構成含めてもう二度と出会えないと思います。完全敗北。あと、スリル・ミーに推しが出て欲しいかと言われたら暴力振るうようなもんなので無理です。生き生きやってる成河さんバケモン(褒めてます)ここまで密度の高い情念を瞬時に爆発させたり切り替えられる俳優さん観たことない。全体的に愛や恋とかいう言葉で正当化されてはいけないものがあって、許されない行いも理由があれば理解できるみたいなことを第三者が思うのも傲慢で、そういう人間のグチャグチャしたものが全部噴き出してきてしまってしんどかった。役の解釈によってもっとロマンチシズムに酔えたのかもしれない部分はある。見比べしなかったの最大の後悔。

 君が必要だ。

 成河「私」はこれを愛と呼ぶのだろうか。究極のディスコミュニケ―ション、ありがとうございました。