星組公演『霧深きエルベのほとり』を観ました

 

 ど、どえらいことやったな?!ウエクミ!!!!!!!!!!

 初っ端から取り乱してすいません。お察しの通り、星組さんの『霧深きエルベのほとり』を観てきました。いやーーー!!!めちゃくちゃ良かったーーーー!!!!!2019年のっけから最高のお芝居。潤沢・演出を手掛けた上田久美子先生の講演会での熱の入った話しぶりから興味を持ったわけですが、ハンカチびっしょびしょになるくらい泣きました。観てない方はこんなブログ読んでないで早く観に行って!!!人間味に溢れた作品の素晴らしさはもちろん、上田久美子先生が何故この作品を2019年の幕開けに持ってきたのか深い示唆を感じました(拗らせオタク) 宝塚という清く正しく美しい庭で彼女が誰よりも未来を見据えている演出家の一人であるという思いが確信に変わる観劇経験となったのでその感想をまとめてみます。

 

※以下、盛大にネタバレ含みます
※観た雰囲気で好き勝手めんどくさいこと言ってる
※説明雑なので観劇した人向け
※上田久美子先生のことはウエクミ先生と呼びます

 

 

 

 

 

 

  静かに、そして静かに。 たおやかな白樺林にはらはら零れ落つ枯葉を背景に絵画のごとくうつくしい男女が幸福に寄り添う。派手なレーザーを打つわけでもエキサイティングな映像流すわけでもないけれど抑えた粋が効いている。芝居で魅せる美学。今回の『霧深きエルベのほとり』は「Once upon a time in Takarazuka」という副題通り、古き良き宝塚「らしさ」と真っ向から向き合った作品のように思えました。
 正直、ウエクミ演出といえど56年前の作品。ストーリーやセリフに馴染めるのか不安でした。はい~~~~杞憂~~~~~~~~解散~~~~~~~~~~!!!!!現代の我々が観ても違和感なくストレートに入ってくるようとても上手く構成されている。冗長さが全くない。ストーリーは乱暴に言うと「船乗りカールが家出中の名家のお嬢様マルギットと一瞬にして恋に落ちるも立場の違いから泣く泣く別れる」というド定番。シンプルなストーリーだからこそ人間の本質が浮かび上がってくる人情味に溢れた恋物語でした。わたしが特に刺さったのは以下三点。

 

1.美男美女の恋物語―――「視線」系の恋だから―――
 イマジン オール ザ オタク!推しカプが初めて出会った瞬間!目と目が合う!雷が落ちる!二人のバックにLove so sweet流れ出す!はい、これが「視線」系の恋です。カールとマルギットはまさにこの王道フォーリンラブ。理屈ではなく今、確実に恋に落ちた!と謎の説得力がある一目惚れですね。このシチュを成立させるために欠かせないのは「顔の良さ」でしょう。いや、だって、顔見て?????一目惚れするだろ!!!!!!しねぇ奴は視力が悪い(暴論) 宝塚という美の園だからこそ力でねじ伏せられるのが気持ちいい。
 けれど、これがただの軽薄な一目惚れで終わらないのは演者に品と切なさのエッセンスがあるから。冒頭、紅さん演じる主人公カールの船上での出立。今から何が起こるんだろうとぐっと引き込まれると同時に何故か不思議な物悲しさがある。この先の切なさを感じさせる空々しい明るさとでも言えばいいのだろうか。そこからたくさんの演者がドイツの伝統衣装に身を包んだ華やかなビア祭りのプロローグに移る。ここでは何度も恋がビールの泡に例えられていました。ドイツではビールは水よりも安い飲み物です。瞬く間に消えてしまうと分かりながらも今このとき、黄金に輝くほろ苦い幸福。なんてうつくしいんだろう。明るいからこその寂しさがグッと詰まっていました。刹那であると分かりながらも愛さずにはいられない。人間のどうしようもなさが愛おしい。

 

2.キャラクターと演者の親和性
 華やかなプロローグから話が進むほどこれは本当に再演なのか?と疑ってしまうくらいぴったりの役ばかりで単純に驚いてしまった。主要三役は特に当て役レベルでしょう。

 

ロリアン
 ことちゃん、ギャツビーやりません?『高慢と偏見』のダーシーでもいい。骨の髄まで上流階級が染み付いているフロリアンをとても自然に演じていた彼女。歌唱力はもちろん、なんでもそつなく上手いので安心して見ていられる。ただ、今回重要なのはそういう分かりやすい技術ではないです。何故ならフロリアンという男、正直よく分からない。いや、理屈として分かっても感情としては理解できないというのが近いかもしれない。いつでも感情的になっていい立場なんですよ。幼い頃からの婚約者であるマルギットが一方的に婚約破棄した上、何処の馬の骨とも分からない水夫と結婚すると言い出すんだから。それにも関わらず彼はマルギットの幸せのために献身を尽くし続ける。愛しているからこそ全てを許したい。彼女が自分を愛さないことすら受け入れたい。ありのままのマルギットを愛し抜きたい。どんなときも優しく語り掛ける。
 ロリアンの感情ってどこにあるんだろう?それって「いい人」で片付けていいものなのか?正直観ていて人を愛するって何なんなのかよく分からなくなってしまった。あまりに突き抜けている。観ている側の倫理観を揺らがせるような、複雑な感情を呼び起こす。愛の答えは一つではないし、そのクエスチョン自体に意味があるのは重々承知しています。
 個人的には幼い頃からずっと育んできた愛情って信仰みたいなもんなのかなぁと感じました。水や空気みたいな当たり前に存在する神様。マルギットへの愛なくしてフロリアンという男も存在しない。マルギットへの愛がフロリアンという人間の輪郭を形作っている。でも、盲目的信仰とは異なり、ちゃんとマルギットのダメな部分も見えていて痛いところも突いていく部分に彼の真っ当な人間性が見える。
 マルギットの妹がその利他的な態度に対して問いかけるというのも上手いことできてた。観客側に立っている人間は重要。その問いに対して彼は自らの恋心を葬るために献身を捧ぐと言った。利己的な献身なのだと。このとき、ロリアンという人間は彼が発する言葉の表面的な意味だけで測れないと思った。とても難しい役ですよね。目に見える感情を抑えれば抑えるほど際立つ魅力。礼真琴という男役の中から滲みだしてくる魅力がこのキャラクターを人間にする。眼差しや背中で余白を語る。今でさえ号泣なのですがきっとここからもっと変わっていくんでしょうね。どう進化していくのかとても楽しみです。

 

カール
 お願いからこればかりは観てくれ。紅さんのために書かれたでしょってくらい本当にぴったり。他の誰にもできない役になったんじゃないかな。わたしが何か言うよりまずは見てほしい素晴らしさ。給料博打で全部スったりするし、言葉の荒さも物語上のTHE労働者階級って感じなんだけど情に熱くて男くさくって憎めない。本当はいい人なのに照れ隠しですぐ茶化してしまう。軽薄さで繊細さを隠している。そういう物悲しさがずっとあって傷付いた過去のある人という感じがする。(この伏線も完璧に回収されていて気持ちよかった)なにより「幸せになれ」と泣き崩れるあのワンシーンの爆発力よ。あまりに愛しくて号泣してしまった。背中をさすってやりたい。わたしはあんたにも幸せになってほしいよ……。観ているものを完全にそっち側に引き込める魅力がそこにあった。別にこんな男好きになりたくないのに絶対好きじゃん。人間として愛しいずるい。全体的に他の登場人物の感情が抑え気味なのでカールが感情的になる部分が余計引き立つんですよね。いつも真面目に恋をして、いつも真面目にフラれる。初めてフったよ。静と動、全く真逆に思えるフロリアンとカールだけど精神的根幹が同じなのもとっても面白い。どちらもマルギットのしあわせだけを願っている。表裏一体の役。

 

マルギット
 そんな彼らを魅了する銀の匙をくわえて生まれてきた名家の令嬢。あーちゃんのビジュアルにぴったりの役。とにかく愛らしい。マルギットの「家を出るときに持ってきたお金があるの!」という台詞なんか彼女が働くとかそういう階級の人間ではないっていうのがよく分かって良かったですよね。与えられる側の人間。庇護が前提にある存在。これね、言葉にするとすっごい嫌なんですよ。苦しくなる。分かんない人には絶対分かんないと思うんですけど、この苦しさは現代女性にも続いていてカールと恋に落ちるのを見て綿矢りさ『亜美ちゃんは美人』を思い出した。
 でも、観ているときにそれを全く嫌と感じさせなかった。だって、なんか一番自由じゃない……?あーちゃんから滲む意志の強さ補正もあるけれど、一番大きいのは男たちが誰も彼女を傷付けないこと。むしろ彼女の幸せのために自らを犠牲にしようとする。冒頭でカールが言ってた「ひどい目にあわされる」のが相場のお嬢さんが誰よりも尊重にされている。誤解を恐れず言えば「搾取されない」だからこそ、自分を何よりも愛していると知っている男の前で、他の男への心からの愛を罪悪のかけらもなく素直に述べることができるのではないでしょうか。安心できる場所で生きている女性だからわたしたちも安心して観ることができる。

 

3.伝統の「型」としての宝塚
 ここでonce upon a time in Takarazukaがじわじわ効いてくる。男役らしい男役。娘役らしい娘役。伝統ある宝塚。わたしたちはそれらに魅了され、熱狂しています。けれど、少し冷静に眺めると前時代的な倫理観に思える瞬間がある。一歩間違えれば、互いに傷付け合いかねない危うさがある。エルベではその違和感が伝統芸能の「型」としてうつくしく再編されていました。美徳だけを残し現代に合わせた形へアップデートするバランス感覚が天才的なんです。菊田先生の作られた作品の素晴らしさは前提として、ウエクミ先生とてつもなく視座が高い。温故知新そのもの。
 カールの「情に溢れた男くささ」という男役やマルギットの「とにかく愛らしい」娘役に加え、フロリアンの感情の殺し方も伝統芸能の「型」と捉えられると思った。歌舞伎や能では伝統の型を継承するためにたくさんのお稽古を積むと聞きます。徹底的に個としての自分を消し去り「型」を追い求める。自分を殺して殺して殺しきった先、それでも滲み出てくるのが個性と呼べるものではないか。そうして身に付いた男役としての振る舞いが場面に説得力をもたらす。身体的にも精神的にも男役としての「型」の伝統を継承する役である気がした。
 先ほど違和感という言葉を使いましたが、誤解しないでほしいのは宝塚そのものを否定したいわけじゃないってこと。むしろ真逆。愛してるとしか思えない。かいちゃんの使い方が殊に顕著だった。カールの水夫仲間であるトビアスが結婚を機に長年生きて来た海を離れ陸へ降りることになった場面。往々にしてそういうメタってダサくなりがち。なのに、ここは憎いくらい粋で完敗だった。あまりにうつくしい。はなむけとして最上級にうつくしかった。何の先入観もなければただただ結婚の祝いの喜ばしい場面なのにわたしたちには泣けに泣けるわけですよ。正直、肩震えるくらい泣いた。兄貴、今まで本当にありがとう。こっちのことは心配すんな。どうぞお幸せに。いってらっしゃい。そう笑って見送れるようになりたいとすら思った。海に込められた様々な意味からも宝塚の構造を冷静に俯瞰しながら、この場所や人に対する愛情が満ち満ちているのがよく分かる。愛が深い、深いよ……ウエクミ先生好き……。

 

 本当に素晴らしかった。今の時代だからこそ、今の星組さんだからこそ上演する意味がある作品だったとはっきり言える。愛とは?人間のままならなさとは?ウエクミ先生の追い求める文学的要素を持ちつつ、組子への深い愛情、時代並びに宝塚というシステムそのものへの冷静な眼差し。誰もが単純に楽しめるだけでなく深く掘り下げることもできる。クミコ茶で感じた人間愛(オタクは王将で泣いた)と温故知新の仕掛けがなされたまったくもってクレバーな潤沢・演出。ウエクミ先生は想像していたよりずっと宝塚という場所を面白がっている。彼女の中で知的好奇心が満たされる場所として存在しているのではないかと完全新作でないからこそ考えさせられました。細かい役のセリフまで統制が行き届いたウエクミ作品大好きだけど、こういうのもいいなぁ。

 色々書いたけど、わたしはこういう風に観ましたということでお茶を濁させてください。これでやっと前情報なしの感想が書ききれたので封印していた座談会など読もうかと思います。そこから自分の考えが変わるのもとっても楽しみです。あと、みなさんがエルベ観てどう感じたかも知りたい。ブログ書いてくれ。頼む。

 では、また。

 

追伸:劇団へ クミコ茶してください